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チョットひとこと アーカイブ

2007年01月26日

1月26日のひとこと

親子二代の競売屋の鈴木司郎です。

不動産競売は昭和55年に入札制度になる前は、競りで行われ、『闇の世界』と言われていました。

私は昭和44年にこの世界に入りました。競りの経験は10年という事になります。今では競りの経験をしている競売屋さんも本当に少なくなりました。当時は普通の人はもちろんの事、弁護士さえも競売場へ入るのを嫌がりました。狭い入り口にその筋の人が立ち、入場する人をチェックしていました。

今はご夫婦が自宅にする為に、OLが利殖の為にワンルームを、隔世の感があります。競売の世界も大きく様変わりし、一般の人達も入り易くなりました。

東京23区だけでも年間5000軒ほどの競売物件が出てきます。
この市場を見逃す手はありません。私の競売に関する全てを提供します。これからご一緒にやってみましょう。

2007年02月02日

2月2日のひとこと

◆昔の競売・その1◆

昭和20年代の中頃、初めて父に連れられて、東京地裁の競売場へ行った。
日比谷公園の前の焼け跡に建てられた2階建てのバラックであった。1階と2階で同時に競りが行われていた。父は階段を駆け上ったり降りたりと忙しく行き来して、両階で競っていた。

普段の父と違い、大変な迫力であった。
小学生だった私を何故競売場へ連れて行ったのかよく分からないがそれ1回きりのことであった。それから20年後に自分が競売場に出入りする様になるとは予想も何も出来なかった。競売場が呼び寄せたのだろうか?

当時は敗戦直後の混乱期で競売件数もやたら多かったと聞く。M会J一家が牛耳っていて、競売屋と言われる人達以外の一般の人は全く参加出来なかった。もし参加するとすれば、J一家のS組の四天王と言われた人の誰かに依頼するしかなかった。競売場とM会の完全な独占市場であった。談合も日常茶飯事、時に刃傷沙汰もありマスコミを賑わせた。


残念ながら四天王と面識はない。50年以上も前の話である。その頃の人、父と競合した人達はもう殆どいない。その父も23年前に亡くなった。79歳であった

2007年02月09日

2月9日のひとこと

◆昔の競売・その2◆

『1億!』
『1億1千万!!』
父と私の声が競売場に響き渡った。一割のキャッシュを執行官の前に積み、声で競る。これはもう男冥利に尽きる仕事であると、少なくともわれわれ競売屋は勝手に思い込んでいた。
父が言った。『素敵な女性でも出来たら競売場に連れて来い。そして、お前の競っている姿を見せてやれ。俺が競り負けてやる』


父とは結局二度ほど競り合い、二度とも私が勝った。
『さあ、来い!!』と私に向かってかけ声をかける父の姿が今でも目に浮かぶ。

私が競売場に出入りするようになった昭和40年代中頃には、M会だけではなく、多数の組関係者がいた。
競りの最中に『降りろ!』『明るい夜ばかりじゃないぞ!』『片腕置いていけ。』等々のチャチが入ることもあり、とても素人が入っていける様な状態ではなかった。競売屋といわれる人たちの中にも今迄会ったことのない様な人がたくさんいた。

2007年02月16日

2月16日のひとこと

◆昔の競売屋・その1◆

私道ばかり競落し、ドラム缶を並べ、通りにくくして、私道を通行する人達に買ってもらっていたMさん。
『宅地になっている道路は、時にいい担保物件になるよ。』とか、いろいろ教えてくれた、易しい良き人でした。早くに亡くなりました。

ある春にランドセルを一度に五個も買ったOさん、奥様以外に何人の女性がいたのでしょう。全部腹違いだったそうです。
この方も若くして亡くなりました。

アパートを競落し、一部屋だけ空け、毎夜馴れ合いの喧嘩をし、共同トイレを使用不可能なほどに汚して、住人がいたたまれなくなり、出て行くという様なことを業としていたS会社。
秘訣は唯一つ、ひたすらあやまる事だそうです。

嘘か本当か、芝浦の屠殺場から牛の首だけ買ってきてアパートの軒先に吊す。
これで皆出て行くなどとも言っていました。


いろんな競売屋さんがいました・・

2007年02月23日

2月23日のひとこと

◆昔の競売屋・その2◆

1年間に60件の収去(建物の取壊し)をしたIさん。
ある時一審で負けた事があった。
判決理由は『権利の濫用は、之を許さず』であった。


収去ではあるのだが、あまりに数が多過ぎたという事であろう。
民法の大前提を持ち出さなければならなかったところに、
判事の苦悶も読み取れるが、それに対してIさんは
『国は私を保護しないのなら税金を払う義務は無い。』
と、ジュリスト片手にまくしたてていた。

二審ではIさん逆転勝訴。
『一審の判決はあまりにも感情的である。』
と、二審。

Iさん、高笑いであった。


『ちなみにIさんの判例は100件を越える。』
と、本人が言っていた。
とても弁護士もかなわない様な達人が、競売屋にはいた。

2007年03月01日

3月1日のひとこと

◆昔の競売屋その3◆

毎夜、土台に薄めた酸をかけに行き、半年で家を傾けたMさん。
匂わない程度に酸を薄めるのがとてもむずかしいと言っていました。

あまり人相の良くないのを何人か連れ、
「お宅は色んな薬品を使うんだってねぇ、火をつけたらよく燃えるだろうね。」とKさん。
大山金井町のクリーニング屋さんでした。

これを一日おきに行ってやる。
私も一度現場へ行ったのですが、にこやかに、ちらっとやるわけで
しかしクリーニング屋のご主人はとても、かたい表情でした。

しばらくして明渡しは完了したそうです。
Kさんは早死しました。

2007年03月09日

3月9日のひとこと

◆昔の競売屋その4◆

連合艦隊の代表で父がよく競っていた。
連合艦隊というのは、それこそ競売の大立物達が競合を避けるために、
共同競買することで、一種の談合?

三人から五人位で組むのであるが、皆一国一城の主でむずかしく、
父がまとめ役であった。

お前が組む相手ではないから同じ様な事はするなと言われていた。
私も「共同のものは俺の代まで残してくれるな」と父に言っていた。

五、六年かかって処理してくれたが、中野の底地の一物件だけ残ったのが今もある。

二人で共同競買いしたものであるが、その共同の方も亡くなり、
相続した奥様も去年亡くなり、お子さん達は事情もあり、相続放棄。

持分2分の1は国へ行くのか、払い下げか、面白くなりそうである。
もうそれらの大立物達もお一人だけご在命と聞く、
父をのぞいて晩年は一様に孤独であった。

その時の父達の共同競買の影響か、今もって裁判所は特別な場合を除いて、
共同競買を認めていない。

2007年03月16日

3月16日のひとこと

◆身震いする物件◆

久しぶりに身震いする物件があった。

下町の商業地域の小さなビルで土地が30坪ついていた。長期の賃借人が一軒だけあり、大衆酒場をやっていた。
売却基準価格は6500万円、坪単価200万ちょっと、ある
地上げ屋さんの見積もりでは更地価格で坪1500万円も可
能とか。
45000万円になる。

『1億円出すから、空けてくれ。』大衆酒場の人、どうするだろう。

開札の結果は25000万円であるから、すごく高いと思うかもしれないが、明け渡しに1億円使ったとしても1億円の利益。

明け渡しができなかったらというというリスクもあるが、家賃30万円ほどで入っている賃借人に1億円出すからと言えば、余程のことが無い限り空くであろう(3000万円でも可能かもしれない)

時にこういう物件が出てくる。
こういう物件にどんどん入札してみたい。
皆様、いかがでしょう、一緒にやりませんか?

2007年03月23日

3月23日のひとこと

銀座の中央通りに面した土地の価格が、坪当たり1億円を超えている。
バブルの最盛期をもしのぐ勢いである。どう考えたらいいのか、
大変難しい。ファンドというものの出現がそれに拍車をかけて分かりにくくしている。

もうそろそろかなと思っていた矢先、外資の大手がこれから2兆円の投資をするという記事が日経に出て、又、勢いづいた感じがする。

たしかに世界の大都市の中でも東京が最も動いていて面白い場所なのかもしれない。

住宅地の松涛あたりも坪800万などと言っている。

行き着く先はどこなのだろう?

2007年03月30日

3月30日のひとこと

ゴルフ場に行く途中に桜並木がある。
満開の時にぶつかった年は、一時、車を止めて両手を合わせる。

本当に幸せな気分になる。
あと何回来られるだろう。
一年にたった一週間の見頃の桜たち。
その桜に会える日が刻々と近づいている。

2007年04月06日

4月6日のひとこと

天才は孤独である。
企業のトップも、又、孤独であるといわれる。
並外れた能力を持っている天才が孤独になるのはよく分かる。
一般人の領域をはるかに超えている部分を持っているからで、また時として、その反対側がとてつも無く欠落しているので、一般人にはとてもついて行けない。

企業のトップの孤独というのは、そうならないと勤まらないということで、これは人によってはつらいことであろう。

一般人は絶対に孤独になってはいけない。
人間は本来、一人で生きていけるようにはできていない。
競売になる人たちも競売の大立物達も、ともに孤独の人が多かった。

人生とは、自分を囲んでくれている人達と自分が持っている種々の世界(ジャンル)の人達と一緒にやるものだろう。

そしてそこには、前向きに素直に、そして常に感動と感謝がなければと思う。
人生やりようによっては、本当に楽しい、素晴らしいものです。
こんな嫌な世の中でも・・・・。

2007年04月13日

4月13日のひとこと

「クラシックを友として」少し気障なセリフですが、今まで生きてきた中で「クラシック」とは本当に良いつきあいをさせてもらっている。
小学校の5年生のとき、日比谷公会堂でベートーヴェンの「第九交響曲」を聞いたのが最初のつきあいだと思う。
演奏後、5分位立ち上がれなかったことを記憶している。
何か、体中にビリビリと電気が走った様な、興奮を覚えた。
この「第九」を自分が舞台で歌うようになるとは・・・

大友直人さんの指揮で、初めて歌ったときの感動を今も忘れない。

ドイツ語に接するのも初めて半年の練習期間があったのだが、最初の数回で、妻と

「やめようか、とてもついて行けない。」
「でも、もう少しやってみましょう。」

全く頭に入ってこなかったドイツ語が3ヶ月目くらいから、メロディにのって出てくる様になった。
初舞台には感動に打ち震えながら、それこそ胸をはって、心から歌った。

アンコールを受けながら、涙をこらえるのが精一杯であった。
やれば、出来る、50の手習い、何とかなるものだ。
こういう舞台に立てて感謝、感謝であった。


2007年04月20日

4月20日のひとこと

1番50センチのパーパットがカップに蹴られてボギー。
出だし、いや~な感じ。

しかししかし、2番、3番、4番と3連続バーディー、アイアンがピンに向かって真っ直ぐ飛んで行く。

すべてが1メートル弱のオーバー、7番もピンにからみ30センチバーディー、こんな感じはそれこそ何年振りだろう。
背中がゾクゾクして回りが一切、気にならない。

何も聞こえない、1人の世界。

何も聞こえない、1人の世界。

ハーフ、4バーディ36年のゴルフ人生の中で初めてのことである。まだまだ成長期か?

「今日はどうしたんですか?」と周りも変あつかい。

激しい緊張からか翌朝はぐったり。

ここ数年ゴルフの調子があまりに悪かったので、体の手入れ(トレーニング)をしてきた2ヶ月ほど前からランニングも取り入れ体がシャンとしてきた様な感じがしてきた矢先。
『天は私を見捨てなかった』
少しオーバー、まだまだ若手に負けてられない。
ゴルフにまた、自身めいたものがわいてきた。

2007年04月27日

4月27日のひとこと

「今日の夕食はとてもおいしかったよ、ありがとう。」

本当においしかったのである。

妻はじっと私の顔を見て、
「うれしいわ。そんな風に言ってもらえると。」

本当にうれしそうだった。

素直に自分の気持ちを表現するのが日本の男性は下手である。
結婚してもう四十年も経つが意思の疎通を欠くことはよくある。
大変、夫婦の会話は多いのであるが…

だからできるだけ素直に話をするようにしている。
そしていつも感謝の気持ちで“ありがとう”と言うように心掛けている。

最近は夫婦のケンカもなくなった様な気がする。
…この年になって遅過ぎたかな?

少しの努力で、口にした事が何倍もの喜びで帰ってくる。
人との上手な付き合い方にも通じる。
これからも実践しようと思う。


今日は「愛しているよ」とでも、少し努力して言ってみようかな。

2007年05月04日

5月4日のひとこと

最近はプロ野球の選手たちが、選手同士よくハグハグするのを見かける。
また、時に泣いたりするのがテレビに映し出されたりする。
私も野球部卒であるが、当時そういうことは見たことがなかったと記憶している。
時代は変わったと言えるのだろう。
感情表現が豊になったと言えなくもない。
大リーグでは昔からあったように思えるが・・・・・
他のスポーツでも同様のようである。
私もニュージーランドで少し生活をしたせいではないが、人とハグハグする習性が身についている。
日本では男性とはあまりしないが、お会いすればハグハグするご婦人の数は50人を超える。
2度目からはもう挨拶の一部であり、しないと、『どうしたんですか?』と言われることすらある。
単に『コンニチハ』と言うだけより、はるかに気持ちが伝わる。
時として背中を軽くトントンとしただけでその時の相手のコンディションがわかることがある。
我々の世代では、まだまだ違和感を持って見られることもあるが、皆様も是非実践してみて下さい。
人生楽しくなりますよ。
ちなみに妻とは、1日数回のチュッチュが習慣化されています。
余計なことを申しました。

2007年05月11日

5月11日のひとこと

ドンキホーテ。ブルースクランプトン。
両方とも有名な人の名前であるが、どこに点を打つだろう。
多分、正解者は半分くらいかなと思う。
ドンキ・ホーテとドン・キホーテの2つの答えが出るだろうが、人間の思い込み、これはあてにならない。
思い込みが常識になり、その線でどんどん人生をやっていったとしたら、『錯覚の人生』ということになる。

家は南向きが最も良い。
しかし、ニュージーランドでは北向きである。
南半球では、赤道が北へくる。


ある小料理屋さんでの出来事。
私の友人のFはそこの常連であり、板さんとも親しい会話を交わす仲になっていた。
結婚記念日に奥さんを連れて行ったところ、
『あれ、お珍しいですね。今日は奥様は・・・・・』

いつも白紙状態でいましょう。
それ以来、Fさんは板さんに会っていないそうです。

2007年05月18日

5月18日のひとこと

人の人生の行方が、時に分かることがある。
何が何でもそっちへ行ってはいけないという時がある。


しかし、人生『誤解と錯覚』の連続。
第三者なら分かることでも、本人が分かるとは限らない。
仮に分かっていたとしても、行ってしまうことがある。

ある女性30歳。離婚が成立して独り身になり、張り切って仕事に勢を出し始めた矢先、半ヤクザに誘われた。
『君の会社を作る。社長になってくれ。年収一千万は保証する。』
誰が信用するかと思うような話であるが、彼女はそれに乗った。
『そっちへ行っちゃ駄目だ!』と何度も強く止めたが・・・・

会社に多額の借金でもさせ、責任を全部代表者の彼女に押し付けてぐらいの予想は誰しもつく。
名刺に代表取締役社長と自分の名前が書かれているのを私に見せて、ニコニコと笑っていたのが昨日のことのように思い出される。
それから3年後、彼女は帰らぬ人となってしまった。

2007年05月25日

5月25日のひとこと

私の会社へは毎日、いろいろな人が訪れてくる。
もちろん。8割以上の人が仕事関係であるが、友人たち、また誰かの紹介の人たち、年齢もそれこそ老若男女全てである。
『よろずもめごと引き受け業』とでも言おうか?

不動産に関する相談、もめごとはもちろんのこと結婚、離婚、男、女、家族にまつわる種々雑多な事柄が持ち込まれる。
かつて偉い人が『十人十色』と言っていたが、そんなこと相談してもしょうがないだろうと思えることでも。
本人は真剣なのだろう。

『他にも考えることが無いんですか?』
『周囲の人は大変でしょうね。』
と言ってしまうのは簡単なのだが、どうも聞いてあげるということが重要のようである。
自分の胸のうちを聞いてもらうだけでホッとするようである。

時には、『考えてもどうにもならないことは考えるな。そっちへ言っては駄目だ!こっちへ行け!』と、人様に命令をするようなことにもなるが、何でも話しやすいということで来られるので、これからも『よろずもめごと引き受け業』、そういう役割の人生かなと思っている。

2007年06月01日

6月1日のひとこと

ベストセラー『女性の品格』の中に、上品な女性は・・・・・
『礼状が書ける』『約束をきちんと守る』『型どおりの挨拶が出来る』等々が書いてあります。
皆さんの周りにはこの3つだけでもきちんと出来ている女性がいますか?
最近では男女の区別もあるような、ないような『あの野郎、気に食わねえんだよ、ウザイんだよ!』
これは地下鉄の中での若い女性のセリフです。
上品とか、しっとりしているとかが死語になってしまったのかと思える時があります。
元気のよいことと下品とは違います。
私の周りには幸運にも上品に属するだろう女性が数多くいます。
お手紙もけっこういただく、私も返事を書く、いっしょに食事をしたり、誰かに引き合わせたりする場合は条件は『しっかり挨拶が出来る女性』ということです。
時折、お会いしても、何かほっとさせてくれ、安心感を持たせてくれる女性というのは素晴らしいです。

2007年06月08日

6月8日のひとこと

宝くじで3億円当てた人たちのその後の人生は、あまりおもしろくないとか・・・・・
『持ちつけてない金を持つと』とよく言われるが・・・


私のかつての友人で、親から7億円の不動産を相続したのがいた。
7億円で売却する取引きの最後の時、私が仲介したのであるが、
『2,000万の仲介手数料は半分にしておいてくれ』
ときた。
しかも、お前に仕事をさせてやったんだから、ありがたいと思えという態度であった。
背中につっかえ棒がいるほどふんぞりかえっていた。完全に別人になっていた。


数年後、朝の8時から国税の査察官がわが社へ来て、夕方6時頃まで、丸一日調べられた。
仲介しただけなのに、
『本当にもらったのは1,000万円だけですか?』
とか、金庫の中も全て調べていった。
丸一日仕事にならなかった。大変な迷惑であった。
多分、そんなこと、彼は知らない。

絶交を言ったとき、彼の奥さんが、
『鈴木さん、何とか我慢してくれないでしょうか、友達は鈴木さん一人になってしまいました。』
7億円で友達全部を無くした。


お金というのは、時に、予想外に入ってくることがある。
しかしそれはどう使うかが問題で、その使い方でその人の価値が決まる。
彼は7億円を持つに値しなかったのだ。
孤独へまっしぐらであろう。

2007年06月15日

6月15日のひとこと

競売物件に対する抵抗感が最近ではあまりないようである。一般の売物件と同様にとらえている。「首っつりの足を引っ張る」と言われたのはもう古い昔の話であろう。かつてこう言われて私は友達を失った事があった。足を引っ張るのではなく、競売になってしまった人の、一日も早い再起をお手伝いするんだという気持ちをいつも持っている。

どういう状況でもそこにどっぷりつかってしまうと、人間は動くことが億劫になる。動かなければ再起は覚束無い。昔ある建設業者が傾き、いくつかの競売物件が出てきた。社長にあうと「品のいい紳士」という言葉がピッタリの人であった。「任売にしませんか」と私は話をもちかけたわけであるが、かけ出しの私など、とても太刀打出来ないくらいの充分な知識を持っていた。しかし自分では何もせず「面倒くさいから、鈴木さんにまかせる」であった。いくつかの物件を整理させてもらった。ある土地を半分売り、残地に自宅を作り、晩年はそこでご夫婦で暮らされていたはずであった。

あれから三十年。彼の会社の不動産が又、競売市場にでてきた。何があったんだろう。私はどうするだろう。

2007年06月22日

6月22日のひとこと

オペラのアリアの演奏会を聞きに行った。
音楽学校を出て数年という、若手の歌手達が多かったのであるが、その声量の豊かさに圧倒された。 技術がどうのこうのという前に、器の大きさにおもわず何度も「ブラボー」と叫んでしまった。 これからの成長が本当に楽しみである。うまく育っていって欲しい。

私が若い頃から聞いてきた大好きなオペラであるが、時代は大きく変わってきたと感じる。こういう若年が、これからは世界を股にかけて活躍していくのだろう。素質的にも決して世界に見劣りしない。昔とは違う。

我々競売の世界でも、年寄りの出る幕は無い感じがする。会う度成長している眩しい程の二十才代の青年がいる。こんな息子がいたらなあと思う今日この頃である。時代は変わった。

2007年07月06日

7月6日のひとこと

競売の実務の中では明渡しが最もむずかしい。
家族で生活していたり、店として営業しているのを出て行ってもらう交渉なのだから、年老いた夫婦にここで死なせてくれ、子供の卒業まで何んとか、せっかくお客さんが増えたのに、時には空家のはずが組の看板が出ていたり、これを法律知識と腹芸で解決していくのである。
明渡しが出来る様になれば、一人前の競売屋として認てもらえた。
今、この明渡しについて、私はむしろ女性の仕事だと思っている。もちろんある程度の年の女性でなければ無理であるし、男性一人の家なども、さけた方が良いとは思うが、私どもでも女性の仕事として定着してきている。
原則論は、本当に、丁重に接する事である。

2007年07月13日

7月13日のひとこと

「司郎さん、ホテル行こう」小学五年生の女の子からの誘いであった。夏になると、プール付のホテルへ行きたがった。三時間でも四時間でもプールで遊んでいた。夜になると疲れて、すぐに私の腕の中で寝てしまった。私が二人だけでホテルヘ行った、最も若い女性であった。可愛くてしょうがなかった。今は十八才になり、メキシコ大学の医学部の一年生である。私の唯一の姪である。もうずい分と会っていない。
かつてユカタン半島を旅した事があった。スペイン軍がここからメキシコに攻め入ったという海岸で遊んだ。もう何も言葉はいらなかった。「地球にはこんな美しい場所があったのか!」。「地球は何んと素晴らしいのだろう!」。昨日の事のように思い出される。
しかし、しかし、今この地球を、我々人類が、どんどん汚し、破壊している。この姪が私の年になる迄、五十年ほどあるが、「地球は持つのか!」「快適に過ごせる場所でいられるのか!」何か、これからの若い人達に我々は、とてつもない罪を犯してしまったのではないか。

2007年07月20日

7月20日のひとこと

新潟を、又、又、大地震が襲った。狙い打ちをしているのではないかと思えるほど、新潟が標的にされている。小千谷にいる親友と夕方連絡がとれて「もう本当に、こわかった。酔っぱらいそうであった。家をとび出すのが勢一杯であった。」無事でいてくれた。無性にうれしかった。ほっとした。この地球では今はもう何が起っても不思議ではない状況に思える。もっと、とんでもない、大きな天変地異が起るのか、地球が怒っているではないか、宇宙から見た地球、それは実に美しいと、どの宇宙飛行士も異口同音に言う。その地球に今何が起っているのだろう。温暖化の影響で私がスキップして歩いた、あのベニスもあと十年持つかどうかとも言われる。大至急「どうにかしろ」と地球が言っている様に聞える。
新潟地震もその警鐘では・・・・・・

2007年07月27日

7月27日のひとこと

書道を習い出して、もう十五年近くなる。ゴルフに勝つ為に集中力をつけるという、妻のアドバイスで始めた。夫婦で机を並べて二年ほどはやっていたのであるが、私がその教室に定着するのを見届けると、妻はさっさとやめて行った。私達の後の席にいた若いお嬢さんに、「お習字が終わった後は司郎さんと一緒に食事をしてあげて」と、私を彼女に託した。私の言い分など全く聞く必要もないほどの美しいお嬢さんであった。後年私たちの実の娘のようになるのであるが、妻の作戦にマンマとはまり、私は別な楽しみもあってせっせと教室に通う事になる。
しかし、大変な世界に入ってしまったと思った。古い習慣が敢然と残っていた。とにかくむずかしい、思うように書けない。又年がら年中出品する為に、次から次へと作品を書かなければならない。早朝や、土曜日をその時間に当てるのであるが、十五年もやっていると、もうそれも習慣化されてきて、生活の一部になっている。最近では、私のとっての一番の「寛ぎ」の時であり「無」の時間でもある。習字での娘も今はもう二人の子のお母さんである。結婚式にも夫婦で招待され、本当のご両親から「東京のパパ、ママと言って慕っておりました、本当にお世話になり、ありがとうございました」と、もうあれから十年ですか。

2007年08月02日

8月3日のひとこと

小泉政権の五年間、不動産競売の申立件数は少しも減少しなかった。バブル崩壊以前の三倍前後で推移している。自殺者数も相変わらず一日に百人近い人が・・・・・・しかも中高年が多数・・・・・・これで経済が上昇していると言われても格差がより鮮明になったとしか言いようがない。弱者は全く救われていない。「私をとるか、小沢さんをとるか」と国民に公言しておきながら、大敗しても続投宣言する総理。日本語を理解していないのではないか。こういうトップを持つ国民は不幸である。大臣任命をみていても、隣組の役員選挙のほうがまだましだ。仲よしクラブを作っているのではない。国の為に、国民の為に、一身を投げうって貢献出来る人を選ぶはずである。その先には「世界貢献」という壮大な役割すらある。しかしそれどころの話ではない。あまりにレベルが低く過ぎて「情けない限り」と言うしかない。こういうとんでもない先生方を選んだ我々国民にも大きな責任がある。今回の選挙で少しは変わるのであろうか。

2007年08月09日

8月10日のひとこと

参議員選が終り、自民党大敗、それでも首相やめず、赤城大臣おろし、納得出来る様な状況では全くないのであるが、へんな静けさ、落着きをとりもどしたかのような感じ、嵐の前の静けさ、それともちょっと違う。テレビによく出ていた、弁護士や娘のキャディをやっているお父さんが楽々、当選、何が出来るのだろう。お二人に何んの恨みもないが、選んだ側は安易過ぎないか、政治を志し、修練を積み、国や国民の為、世界の為に働いてくれる人を選べないのか、そういう人を選べないのか、そういう人を持てないとするならそれは悲劇だろう。我が市川市でも先般の選挙で「長嶋」のものまねをしてテレビに出ていた人が、それこそぶっち切りのトップ当選、この人にも別段の恨みもなにもないが、知名度だけの人に税金を払う気にはなれない「枯木も山の賑わい」でこまる。

2007年08月16日

8月17日のひとこと

「どっちが先にやめるか」今、国民の最大の関心ごとである。安部総理と朝青龍である。共通しているのは両方おかしいと思われている事が原因となっている。やめるべきだと思われている。思わない人は何が利害関係があるのだろう
片や我が国の首相、もう一方も日本の国技と言われている相撲界の横綱、あまりにお粗末過ぎやしないか。最近は日本の種々の分野のトップクラスの不祥事が多すぎる。自分だけは許されるとでも思っているのか。「反省すべきは反省し」と再三言われているが、レベルの低い出来事の山で、反省する暇も無いのではないか、何を反省するのかさっぱりわからない。もっと国や国民の為にやるべき事が沢山あるはず。不動産競売の件数もここ五年間ちっとも減っていない。自殺者も相変わらず多い。
国民はどうしたらいいのか、その選択が先頃の参議院選であったはず。横綱の方も協会親方ともども、どうしていいのかわからず、ただ、オロオロするだけ。…数年前九州の平戸へ旅した時の事、街を散歩していると、下校時の中学生とすれ違った。殆どの生徒達が「今日ハ!」とにこやかに挨拶をしてくれた。無性にうれしかった。こういう子供たちの為にもキリッとやってくれませんか!

2007年08月23日

8月24日のひとこと

オークランドの飛行場に着いた途端、空気は一変し、時は止まった。レンタカーを借りて、家へ向かう、高速道路は全て無料、三十分程で到着、一年間の仕事の疲れを取る少し長目の夏の正月。とにかくのどかな気分になれる、日本にいる時よりはるかに落着く。毎日がゆっくりと過ぎて行く、太陽や月や星や、島や海、そして美しい自然にかこまれて、そこにとけこんで、ゴルフをする、泳ぐ、散歩をする、食事をする。生まれてきて本当に良かったなあと思える一時。十五年ほど前の話である。今はニュージーランドも人口が増え、東南アジア系の人達の比率が上がったとか。十五年前のあの自然のままでいて欲しい。そして又ゆったりと行ってみたい。とても。

2007年08月30日

8月31日のひとこと

オークランドのレミュエラという所に家があった。岡の上に建築されていて、その眺望は一日中見ていても飽きる事がなかった。正面に海、その中央部に真黒く火山島である、ランギトット島、家から海までは車で五分程、途中には、所々昔のイギリス風の集落というか、家が建ち、周りは木々の緑、そして沢山の花々、日の出から日の入りまで、空の色がそれこそ七色に変わって行く。その景色をゆったりとした気持ちで眺めながら、楽しい会話、食事。こんな時間の過ごし方があったんだなあと。私の親友K君も十日ほど滞在してくれたのだが、もう帰りたくない、ずっとここにいたいと。「日本では忙し過ぎたな、司郎、これが本当の人生というものだよな、あと五年したら引退するから、ここで司郎と一緒に生活したいなあ。」その二年後K君は遠い所へ旅立ってしまった。「もう一度連れて行ってあげれば良かった」のか、十五年たった今でも、その時のうれしそうなK君の顔が忘れられない。事業拡大、拡大の果ての過労死、無二の親友だったのに。

2007年09月06日

9月7日のひとこと

レミュエラの家から車で二十分以内に、二十ニのゴルフ場があった。セルフでやるわけであるが、日本人のツアー客の行かないゴルフ場は安く、千円程で出来る所もいくつかあった。これから二人で行きますが、やらせてくれますか、電話一本でOKであった。コーヒー六十円、サンドウィッチ六十円、食事は二人で二百四十円、一日に二つのコースを回ることも難しくなかった、全くの別天地。妻と二人で回れば三時間と少し、昼が長いので、三時頃からでも充分に回れた。妻も上手になり、何度か三十代で回った。時折、車で四、五日の小旅行へ出た。泊るホテルも決めず、行きあたりバッタリ、夜はモーテルへ行き、交渉、二人で一泊五千円ほど。三百キロ離れているところでも、三時間で行く。高速道路、町、町を抜けるのに五分、そして又高速道路という作り。ずっと高速道路だけを走るわけではないので退屈しない。道路は全部タダ。車の数も少い、オークランドから二百八十キロの所にある、タウポ、ニュージーランド最大の湖、そこにニュージーランドNo.1のゴルフ場があったので毎年の様に行っていた。オークランドから三時間で行く、自然が豊かで、温泉もあり、最高に憩える場所であった。川の水がとりわけ美しかった。これが本来の自然なのであろう、と感動したのを覚えている。

2007年09月13日

9月14日のひとこと

南島のクライストチャーチを、ツアーで旅行中、十二月二十五日が、一日自由行動という事で、新婚旅行中のご夫婦と四人で、ゴルフをやろうという事になった。前日ゴルフ場へ電話したところプロが電話に出て、明日はクリスマスでゴルフ場はクローズと言う。どうにもなりませんかというと、それではホテルまで迎えに行きましょう、四人でゴルフをしてくださいと言ってくれた。二十五日朝九時、可愛いお嬢チャン二人をつれて、大き目のバンで、プロがホテルの玄関へ、誰もいないゴルフ場へ、何とも静か、プロがクラブハウスをあける、そこで四人はクラブをレンタル、靴もない人はレンタル、何時に迎えに来ましょうか、それでは大いに楽しんでください。とプロ。
我々は興奮気味、四人しかいないゴルフ場、四人の世界、こんな幸わせな事はない。こんな事があるんだ・・・・・・。二、三ホール回って新婚さんは二人だけになりたそうなので別行動。次のホールへ行くのも、スコアカードにある地図を頼り、それにしても今度は完全に二人の世界、鳥の声と、風のそよぐ音だけ。顔を見合わせニッコリするだけ。クライストチャーチのワイティキリ、ゴルフクラブ・・・・・・。生涯忘れられないゴルフ場、又いつの日か行けるかな?

2007年09月20日

9月21日のひとこと

私の事務所は日本橋という事もあるのか、まあよく色々な人がお見えになる。多岐にわたる、仕事関係の人はもちろんの事、小学校から大学迄の学友達、又私の沢山ある趣味の世界の人達、男女、年令を問わず。
しかし、非常に長く続いている人達の多いのが特徴かもしれない。「司郎チャン」と呼んでくださる人の何と多い事。そういう時は私も「シロチャン」になりきっている様である。本音で、何でも話が出来るから相当激しい事を言う事もあるが何でもない。先日も昔のダイハツ時代の仲間とゴルフのコンペをしたが、何しろ、一番若いのが六十五歳・・・・全員介護保険を払っているようなグループ。「養護院のコンペですか?」と言われないようにと言うヤツもいて、これだけ元気なのでなおさら始末が悪い。しかし、よく集まるものだと感心する。皆んなあと何年出来るかなあと思っている。
一人、二人と欠けて行くのであろう。それに引きかえ最近の若い人達とのつきあいは大分、趣が違う。それは次回。

2007年10月19日

10月19日のひとこと

十二月が近づいてくると、「今年も第九を歌うんですか?」と聞かれる事がある。日本では十二月にベートウーベンの「第九交響曲」を歌うのが通例になっている。しかしこれはどうも日本だけの事らしい。
私の方も、なぜか、歌いたくなってくるから不思議である。
妻とは来年の二月の「国技館の五〇〇〇人の第九」に久方振りに出てみようかと話している。土俵上に三つのオーケストラ、客席を真二つにして、半分が合唱団、半分がお客様。とにかく壮大なスケールで行なわれる。又佐藤しのぶさん、錦織健さん、とお会い出来る。一緒に歌える。面白い話も聞ける。練習も五、六ヶ月みっちりとやる。最後の一、二週間、オーケストラと合わせる頃にソリストのお二人もいらっしゃる。そして時にオフレコのお話が聞ける。
あの美しい品のあるお顔の佐藤しのぶさんから信じられないざっくばらんさで楽しいお話を、あれこれ思っただけで今から胸がときめく。又二月に妻と共に感動の時間が持てる。幸福である。

2007年10月26日

10月26日のひとこと

鎌倉が大好きで、毎年の様に行っていたのであるが、ここ数年は仕事が立て込んでいて(理由にもならないが)ご無沙汰している。光明寺の近くに親しい家族があり、中学、高校の夏休みはよくそちらでお世話になっていた。時には二週間も三週間も。裏山へ登ったり、寺院めぐりをしたり材木座で泳いだり。今考えても多感な時代の私の気持をフレッシュにしてくれた絶好の場所であったのだろう。その後も北鎌倉駅で横須賀線を降り、円覚寺、東慶寺、明月院、建長寺と行き、気が向けば半僧坊から天園ハイキングコースをたどり、端泉寺におりてくる。そして鎌倉宮、鶴岡八幡宮、若宮大路、由比浜、小町の賑わい等々。その中でも半僧坊に登る直前にある桜が好きだ。数は少ないのだが石畳と灯籠とのコラボレーション?とにかく幻想的な気分になれる。学生の頃にはまだ訪れる人もそれ程いなく、一人きりでそこに立っていた事もあった。一人占めであった。もう何もかも忘れていた。別世界に入っていた。来春又、久方振りに桜達に会いに行こう平日に。土、日は行列になってしまうから。

2007年11月02日

11月2日のひとこと

早朝、一時間ほど家の近所を軽く走ったり、歩いたりする事がある。犬の散歩をしている人達と出会う。日の出真近に公園などでは彼等が、犬を連れて四人、五人と集まってくる。
何々チャン元気だったと、犬に話しかける。犬同志が後足だけで立ち上がり、前足で互に抱き合う様にする。再会を喜んでいるかの様に、そして井戸端会議。犬を仲立にした交流会なのだ。皆、楽しそうである。一見すると、サングラスをかけ、パンチパーマでごっつい感じで、あちらのスジの方かと思える人がいる。連れている犬は両手に入ってしまいそうなぐらい小さく、姿は「バンビ」の様に可愛いらしい。
このコントラストが何んとも面白い。上品な感じで小柄な中年のご婦人が、大型のボクサー犬に引きづられる様にして歩いている。全く相反する様な犬を連れている人達というのは、憧れか、自己表現で自分にもそういうところがありますというのか。こんな事を考えながら公園を通り過ぎる。
多分ニヤニヤしながら私は歩いているのだろう。
それにしても何んと犬の種類の多い事。又犬を連れて散歩する人の多い事か。雲の合間から大きな真赤な太陽がゆっくりと昇って来た。
「きれいだ!」手を合わせる。「ありがとうございます。」

2007年11月09日

11月9日のひとこと

先日何気なくテレビを見ていたら、スイスのツェルマットが映った。十五年ほど前になろうか、妻と共にツアー旅行に参加し、訪れた事があった。電気自動車しか走れない町、マッターホルンの登り口の町。町というより村という方がピッタリの小さな花の多い所であった。「マッターホルンに出会う。」私の夢の一つであった。あの三角形の異様な形の山に出会うのが・・・・・。しかし十回行って十回とも見られなかったという人がいるくらい、いつも雲をかぶっている山でもあった。夕方ホテルに到着。七時からディナー。二時間ほど自由時間。それでは少し散歩でもしようかと、二人で町の奥の方へ細い道をゆっくり登って行った。曲がりくねっていた道が突然開けた。そしてそこには紛れもなく夕日に輝くマッターホルンの神々しいまでの姿がドーンと・・・・・。明日見に行くはずだった。見る事が出来ないかもしれないと思っていたマッターホルン。言葉が出なかった。ただ五分ほど呆然と立ちつくした。背中がブルブルと震えるのがわかった。二人とも無言。興奮さめやらずホテルへ。七時にホテルのレストランへ。「あれどうしたんだろう停電かな?」明かりが消えていてボーッとしか見えない。とその時、一斉に明かりがついて「ハッピーバースデイ」の大合唱。妻のテーブルの上にはバースイディケーキ。最高のバースデイになった。

2007年11月30日

11月30日のひとこと

天津小湊温泉へ一泊して来た。
市原で高速を降り、297号線から養老渓谷へ、紅葉を見ようと、しかし、途中、大渋滞。
すぐ断念する。かつてゴルフの時に泊まった民宿や料理屋の前を通る。又いつかくるかな?
中野という小さな駅の構内に車を止め、近くのソバ屋さんへ昼食、11月の終わりとも思えないポカポカ陽気の中、ローカル色たっぷりの地に何か優しい感じがする。ソバもうまかった。大多喜城を散策、少し紅葉が見られる。
宿は内浦湾の西の端にあった、海に面していて絶景。堤防には釣人がチラホラと、のどかを絵にかいたよう。料理もおいしく、しかし量が多過ぎる。最近は本当に食べられなくなった。食欲と性欲は一致するとか、しないとか、これじゃいかんなと。湯はとても易しい、ほんの少しヌルッとするのが何んともいえない、長く入っていられ、寝てしまいそうになった。程よい疲れもあってか床につくやいなや、バタン、キュー。
翌朝、宿を出て一路「勝浦の朝市」へ。日本三大朝市の一つとか。かつて知ったる場所へ車をとめる。月曜日の朝という事もあり、市は地元の人のみでガラガラ。
妻、大活躍。重い荷物を持たされ車へ。
帰りの道はすいていた。のんびりとした楽しい二日間であった。

2007年12月06日

12月7日のひとこと

十一月二十三日(結婚記念日)に買って来たカサブランカがまだ楽しませてくれている。ほぼ二週間が過ぎているが、つぼみもまだ二つある。これが開花するかどうかも楽しみである。
花は皆大きく、私が両手を広げたくらいはある(私の手は相当大きい)。文句なく大輪である。堂々としている。少し高値のものを無理したのである。妻の手前、見栄を張った?のであるが、これほど楽しませてくれるとは、香りも咲き始めが強く、部屋に入っただけでプーンとくる、見事である。花にも色々あるが、春の桜、一週間の命というのが、日本人にはうけるのであろう。「散ってなおときめき残す桜かな」何年か前にラジオで聞いた句であるが、日本人というのは自然から色々な事を感じとれる民族なのであろう。俳句や和歌の様なものは他にない、ニュージーランドでは桜は九月に咲く、オークランドで桜の木の下で宴会もどきをしていたら、ニュージーランダーから「何をしているのですか」と聞かれた。あちらにはそういう風習は全くない。わびさびなどというものを感じられる我々日本人は素晴らしい感性を持っていると言えるのかもしれない。しかし最近はそういう事もまるで感じなくなっている様な出来事が多過ぎる。
「日本人、どうしたんだ!」。

2007年12月13日

12月14日のひとこと

残った二輪のカサブランカも見事に咲いてみせてくれた。約三週間に渡り二、三輪づつ日を違えて咲いてくれるという「ショウ」。最初に咲いてから最後のつぼみが開花する迄十日間という時間差、これは一体何んなんだろう。十二個のつぼみが一時に、一斉に開いてしまったら、三週間はとても楽しめない。この時間差にはただただ感心するのみ。ありがとう、カサブランカ。昨日は昔の私のサラリーマン時代の同僚達とのゴルフコンペ、三組で行なわれたのだが、一番若いのでも六十才を軽く越えている。仲間の中からも「養老院のコンペみたい」との言葉が出るくらい。人が打っているのにチラチラ動くわ、しゃべるわ、自分の